好奇心の赴くままに。
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都会で生きる人間の社会的不合理について考えてみた。

2026-09-11column読了 約9分tan

都会で生きる人間の社会的不合理について考えてみた。

都会で生きる人間の社会的不合理について考えてみた。

人とすれ違うだけなのに。

ぶつかったわけではありません。ただ、こちらが少し速度を落として、前方からくる相手が通り過ぎやすくした。ただそれだけなのに。

相手は普通に歩いていきます。私も歩き出します。

本当にこれは何も起きていないのでしょうか。

この記事を読んでわかること

  • 駅やスーパーで起きる、小さな譲り合いのすれ違い
  • 悪意がなくても、配慮する側に負担が集まる仕組み
  • それでも私が、少し速度を落としたいと思う理由

なぜ、いちばん狭いところで追い抜くのか

駅の通路を歩いています。向こうから二人が来ます。

先頭のAさんはゆっくり。その斜め後ろに、少し速いBさん。こちらには私。話を整理するため、速度をそれぞれ0.7、1.2、1.0と置きます。実測ではなく、歩く速さの比です。

前方には柱があります。一人がゆとりを持って歩ける幅を1.0とすると、柱の横は2.3くらい。二人なら通れるけれど、三人が同時に余裕を持って並ぶには足りません。

そして、このままだと、ちょうどそこで出会いそうです。

柱の中央でA、B、私が同時にすれ違い、私が止まらず柱と反対側へ避けるアニメーション

Bさんは速度を変えません。Aさんを追い抜く。その横を私が通る。三人分の調整が、いちばん余裕のない一点に集中します。

果たしてこの場合、全体最適を目指す余地は本当にないのでしょうか。

Bさんが意地悪をしているとは思いません。自分の歩く速度を、そのまま維持しているだけかもしれない。ただ、誰か一人が速度を変えないとき、その分の調整はほかの人に回ってきます。

歩いている姿も、相対的な速さも見えていました。それでも「誰が先に通るか」は決まらないまま。精算だけが、柱の横まで持ち越されます。

改札を抜けたところで行き先を考え始める。エスカレーターを降りた直後に立ち止まる。あれも、判断する場所と、人の流れが詰まる場所が重なってしまう話なのだと思います。

譲った空間には、宛名がない

スーパーの通路です。幅は同じ単位で2.0。私は左側を歩いていて、前の人が商品を見るために止まります。反対側からも人が来ています。

ここで追い抜くと、対向の人が減速することになりそうです。なので私は止まります。自動車を運転するときのルールと同じですね。自分のレーンに支障物がある場合、減速して反対車線の車両を優先するやつですね。

しかし、私の後ろにいた人が、私を追い抜いていきます。

対向の人は、その人を通すために止まります。

……私が止まった意味は。そして、ここでも全体最適をする余地は本当になかったのだろうか。

商品を見る人の後ろで私が止まり、後続の人が追い抜き、対向者が待つスーパーの平面図

後ろの人には、私の判断は見えていません。「前が止まったので、空いている側から進んだ」というだけかもしれません。

しかし、人間はプログラムされたロボットではありません。状況に応じて、周囲の人に応じて、臨機応変に対応ができるのではないでしょうか。(やろうと思えば。)

私が止まって生まれるのは、ただの空間です。「対向の方へ」とは書いていません。善意が宛名なしの現金になって、近くにいた人に拾われていきます。

その場だけ見れば、追い抜いた人は先に進めています。一方で、私が通したかった相手は通れていない。譲った私は、さらに後ろになりました。

これが続くと、「止まらずに進んだほうがいい」と学習したくなります。配慮が報われないだけならまだしも、配慮をやめる理由が、一回ごとに増えていく。

皆さんはこんなときどうしますか?

行列の空白は、誰が守るのか

行列を横切りたいときがあります。

一か所だけ通れる幅が空いていれば、列に並ぶことと、横を通ることは両立します。でも、その空白がなかなか生まれません。列に並んでいる人は、首がもげるぐらい手元のスマホを見ています。

前が空いている。だから詰める。列に並ぶ人としては、むしろ自然な動きです。

列の人が前へ詰めて通り道の空白が消え、横断したい私が待つアニメーション

空白を残すには、誰かが前を空け続ける必要があります。そこは通り道だと判断し、詰めたくなるのを止める。場合によっては、後ろの人にも意図を伝える。

順番が必ず遅くなるわけではありません。それでも、空白には、維持するための手間がかかります。

列そのものは何も悪くありません。ただ、列ができた副産物として、横を通れない人が出ます。その人の遠回りは、列の中の誰の帳簿にも載りません。

こういう、行動の影響が外の人に及ぶことを「負の外部性」と呼ぶそうです。ここでは、並ぶ側の都合に入っていない負担が、通る側へ回っています。

「ここを空けてください」という床の表示は、ただの案内に見えて、空白を一人で守らなくてよくする仕掛けでもあるんですね。そういう仕組みで不合理を解決したくなるのは、私だけでしょうか。

私は並んでいる。相手には、そう見えていない

比較的空いている電車で、降りるために早めにドアの前へ移動します。

停車間際、後ろから来た人が斜めに入り、私とドアの間に立ちます。

ドアとの隙間を空けすぎたのでしょうか。ドアに唇が触れてしまうぐらい密着していれば良かったのでしょうか。降りるそぶりが足りなかったのでしょうか。レジではあんなにきれいに並べるのに、なぜここでは割り込みのような行為が生まれるのでしょうか。

ドア前にいる私の意図が外から判別できず、後方の人が斜めに入る車内の平面図

考えてみると、レジには列があります。ホームには乗車位置の印があります。

でも車内では、ドアの前に立っている人が、次で降りるのか、そこが居場所なのか、立ち位置だけでは判別しにくいのかもしれません。

私の中には降りる意思があっても、それじゃあ相手には伝わらない。

相手は「この人の後ろで待って、本当に降りられるのか」と思ったのかもしれません。降りそびれたときの困りごとは、自分が引き受けることになります。だから、降りられる位置を先に確保する。

皆さんは電車から降りるときに、いつドア付近に移動しますか。どのあたりに位置しますか。

セルフレジでは、次の動きが見えない

セルフレジが6台。中央に通路があって、左右に3台ずつ並んでいます。利用者は通路に背を向けて会計します。

一番奥が空いたので、私はそこへ向かおうとします。

このとき気になるのが、手前のレジにいる人です。会計が終わると、ノーモーションで振り返り、そのまま通路へ出てくるかもしれません。反対側からも来るかもしれません。

セルフレジの客が会計後に通路へ合流し、入口と反対の奥の出口へ抜ける。私は待ってから進むアニメーション

駅の通路なら、少なくとも相手が歩いている方向と速度は見えました。でも、こちらを向いていない人が、いつ振り返るのかは読みにくい。

一度確認しても、その直後に会計が終わるかもしれません。今は通れるという情報と、次の瞬間も通れるという情報は、別物です。

振り返る側にとっては、「通路へ合流する」というより、「会計が終わったから体の向きを戻す」くらいの動作なのだと思います。手には商品や財布。さっきまで意識は支払いに向いていました。

作業を終えた瞬間に、別の人の流れへ入る判断が必要になる。これは、利用者の注意力だけに任せるには忙しい設計です。

もちろん、ゆっくり進むことや、振り返る前に周囲を見ることには意味があります。ただ、歩く側が一回目視すれば全部わかる、という問題でもありません。

一度立ち止まることの難しさが、ここに詰まっていると思います。皆さんはレジから振り返るときに、ワンテンポ立ち止まりますか。それとも、ノンストップで帰りますか。

決め方がない。だから、気づいた人が払う

五つ並べてみると、少しずつ違う問題が混ざっています。

駅や電車では、互いの動きや意図を合わせるための手がかりが足りません。これは「調整問題」として考えられます。セルフレジでは、さらに次の動きの見えにくさと配置の問題が重なります。

スーパーや行列では、譲ることや空白を保つことに負担があり、自分だけ先に進む誘因もあります。各自が目先の利益を追うと、みんなにとって望ましくない状態になりうる。「社会的ジレンマ」という考え方があるそうです。

同じ仕組みで全部説明できるわけではありません。でも、共通しているのは、調整の方法が曖昧なところを、誰かの注意や減速が埋めていることです。

スマホを見ながら歩いている人とすれ違うとき、周囲を見ていた私のほうが避ける。接触しなかったからといって、調整が不要だったわけではありません。見ていた側が引き受けたので、接触せずに済んだのかもしれません。

すれ違えたことと、摩擦がなかったことは、同じではない。

肩を引く。足を止める。次も急に人が出てくるかもしれないと身構える。一つひとつは小さくても、街を歩くあいだずっと続くなら、侮れない負担です。

相手にとっての「周囲」には、私もいる

では、自分も譲らずに自己の都合だけを優先して進めばいいのか。

でも、私が自分の最高速度を守るために誰かを止めたとき、その人が経験するのは、私が今まで、もやっとしてしまった出来事です。

私には「少し急いでいただけ」でも、相手には「こちらを見ずに進んでくる人」になる。

自分の振る舞いは、相手から見れば、他人から受ける振る舞いなんですよね。

その場で先に通れた人は、確かに数秒得をします。ただ、その人も次の通路では、誰かに止められる側になります。私と相手は固定された役ではなく、街の中で何度も入れ替わります。

一回譲れば、いつか必ず自分に返ってくる。そんな保証の話ではありません。同じ相手にまた会うとも限りません。

それでも、誰も速度を落とさない街で暮らすのは、速度を落とさなかった自分でもあります。「譲ったら損だ」と皆が身構える場所を、自分も少しずつ作っているのだとしたら。その場で相手に渡した負担を、自分と無関係だとは思えません。

まとめ:少し速度を落とすのも、自分のため

スマホの画面を見続けること。1分1秒を惜しんで、自分の最高速度で歩くこと。

それは、目の前の人の存在に気づくことよりも、本当に優先したいことなのでしょうか。

私にも急ぐ日はありますし、余裕がない日もあります。誰かの振る舞いを一瞬見ただけで、その人全体を判断することはできません。

でも、自分が気づいたときにどうするかは、選べるのではないでしょうか。

少し速度を落とす。相手が通れるだけの間を残す。動き出す前に顔を上げる。そういう主体的な小さな動きは、他人のための持ち出しであると同時に、自分が気持ちよく暮らしたい街に、自分から参加することなのだと思います。

そして、忙しなく進み続けることを強制させられる、この都会において、自らありたい姿を描き、理想に向かって歩み出す、偉大なる一歩になるのではないでしょうか。

皆さんは余裕が無くなりがちなときでも、気配りができる人ってすごいと思いませんか。周りに焦らされるのではなく、自分の軸を持って生きていきたい。そう願うばかりです。

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